仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

『不労不詩』が出版されたときいて(書評ではありません)

『不労不詩』

度々このブログで登場している福森さん

新しい詩集をkindleで出版されたようです。

 

f:id:nakajokoichi:20131223002511j:plain

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00HFTIEFC/ryota814-22/

 

また売れそうにないものを出したなあ、と。

まず最初にそう思いました。

再三、彼は私に売れるための工夫をしろ、と言っているのに。

しかも100円ってなんすか。自動販売機の市場価格以下ですか。

更には利益の一部は寄付すると言っています。

もうほんとになにやってるのですか。

 

 

感情を冷凍保存

書評とは、良い悪いを明確に提示することだと思っております。

ひきこもりであった彼が、その時に抱いていた感情。

いや、抱いていた、というよりは、

おそらく彼の部屋に漂っていた匂い。

それを閉じ込めたような作品だった。

 

詩集の中には「死」という言葉が度々出てくる。

我々の身近にありながら、日常に潜んでいる「死」。

「死」はこんなにも身近にあるのだと。

 

まああそれはいいとしまして、 

 

さて、

 

読後の私に今残されているのは、無情感です。

彼は度々言っている。

「死に方は選べない。そして生き方とは、死に方を選ぶことだ」

 

亮太さんよ。

亮太さんが100円と価格を付けたそれは、亮太さんの27~29歳までの名前のない感情。

値段設定がこの価格、ということは利潤追求では当然ないのでしょう。

しかしその一方で、これが100円というのが納得できない私。許せません。

亮太さんが抱いていた感情にこの程度の価値しかないのか。

おそらく100円でも300円でも500円でも、売れる数はそんなに変わらないのに。

 

値段を付けて売るという行為

分からなくなります。

私たちは音楽をパッケージにしています。

平均4分くらいの曲を作詞作曲、アレンジ、レコーディング、ミックス、マスタリング。

そしてそれらを曲としてユーザーに提供。

作った側の血肉が込められている訳ですが、それらの価格は、大体市場価格で提供されます。

例えば、1曲1万円で売られたりとか、12曲入りアルバムが10円で売られるということは普通ありえなくて、大体、世の中の「当たり前価格」が適正とされています。

 

そもそも私たちの感情に、値段は付けられるのでしょうか。

誰かを好きになるとか、生き方とか、そういうものに音楽でパッケージにして、値段を付けて商品にしている。

これはすごくおこがましい行為なのではないでしょうか。

 

そんなことを言ったって、お前だってお金を得られなきゃ生活できないだろう。

綺麗事を言うなよ、という声が聞こえそうです。

 

おっしゃるとおり。

 

だから思うのは、私たちはもはや物乞いなのではないか、ということです。

お金がないと私たちは生活ができません。

だからお金を恵んでもらわなければいけない。

でもただ、お金を恵んでもらうのはプライドが許さなくて。

そのお金の代わり、と私たちは芸を披露している。

自分が生きて身につけて来た感情とか技術とか全てを注いで、芸にする。

 

社会的ヒエラルキーの最下層のような存在。

しかしプライドだけは一人前にあって。

それなら、なんだか腑に落ちるのです。

 

だから、そこからはじめてみようと思うのです。

利益を追い求めるだけなら、それこそ音楽じゃない方がいいのですから。