『不労不詩』が出版されたときいて(書評ではありません)
『不労不詩』
度々このブログで登場している福森さん。
新しい詩集をkindleで出版されたようです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00HFTIEFC/ryota814-22/
また売れそうにないものを出したなあ、と。
まず最初にそう思いました。
再三、彼は私に売れるための工夫をしろ、と言っているのに。
しかも100円ってなんすか。自動販売機の市場価格以下ですか。
更には利益の一部は寄付すると言っています。
もうほんとになにやってるのですか。
感情を冷凍保存
書評とは、良い悪いを明確に提示することだと思っております。
ひきこもりであった彼が、その時に抱いていた感情。
いや、抱いていた、というよりは、
おそらく彼の部屋に漂っていた匂い。
それを閉じ込めたような作品だった。
詩集の中には「死」という言葉が度々出てくる。
我々の身近にありながら、日常に潜んでいる「死」。
「死」はこんなにも身近にあるのだと。
まああそれはいいとしまして、
さて、
読後の私に今残されているのは、無情感です。
彼は度々言っている。
「死に方は選べない。そして生き方とは、死に方を選ぶことだ」
亮太さんよ。
亮太さんが100円と価格を付けたそれは、亮太さんの27~29歳までの名前のない感情。
値段設定がこの価格、ということは利潤追求では当然ないのでしょう。
しかしその一方で、これが100円というのが納得できない私。許せません。
亮太さんが抱いていた感情にこの程度の価値しかないのか。
おそらく100円でも300円でも500円でも、売れる数はそんなに変わらないのに。
値段を付けて売るという行為
分からなくなります。
私たちは音楽をパッケージにしています。
平均4分くらいの曲を作詞作曲、アレンジ、レコーディング、ミックス、マスタリング。
そしてそれらを曲としてユーザーに提供。
作った側の血肉が込められている訳ですが、それらの価格は、大体市場価格で提供されます。
例えば、1曲1万円で売られたりとか、12曲入りアルバムが10円で売られるということは普通ありえなくて、大体、世の中の「当たり前価格」が適正とされています。
そもそも私たちの感情に、値段は付けられるのでしょうか。
誰かを好きになるとか、生き方とか、そういうものに音楽でパッケージにして、値段を付けて商品にしている。
これはすごくおこがましい行為なのではないでしょうか。
そんなことを言ったって、お前だってお金を得られなきゃ生活できないだろう。
綺麗事を言うなよ、という声が聞こえそうです。
おっしゃるとおり。
だから思うのは、私たちはもはや物乞いなのではないか、ということです。
お金がないと私たちは生活ができません。
だからお金を恵んでもらわなければいけない。
でもただ、お金を恵んでもらうのはプライドが許さなくて。
そのお金の代わり、と私たちは芸を披露している。
自分が生きて身につけて来た感情とか技術とか全てを注いで、芸にする。
社会的ヒエラルキーの最下層のような存在。
しかしプライドだけは一人前にあって。
それなら、なんだか腑に落ちるのです。
だから、そこからはじめてみようと思うのです。
利益を追い求めるだけなら、それこそ音楽じゃない方がいいのですから。