音楽で食っていくなら「アーティスト」になってはいけない
先日、文筆家のフクモリさんと赤羽で飲んだ。
今年の2月から半年ほど一緒にラジオをやっていた福森さん。
彼はいつでも頭の回転が早い。そして論理的である。
彼はビールを、私は日本酒を飲みながら、私の情けない身の上話とその相談にのって頂いた。
彼のおかげで、私は認識が甘いことを思い知ることができる。
感謝です。
そこで話したことをざっくばらんに書き残します。
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久しぶりにあった彼は以前と同様、耳にイヤホンをしていた。
そんな彼は、常々音楽を嫌いだと叫んでいる。
ブログでは「NO MUSIC LIFE !」をかかげているくらいだ。
http://www.rfmori.com/2013/10/no-music.html
「音楽で食っていくならアーティストになってはいけない」
という。
音楽業界が崩壊している今、自分の音楽を表現して食っていくのなんて無理。
俺が音楽やる側だったら絶対音楽を表現する道は選ばない。需要と供給のバランスが成立してないもの。
むしろ必要とされている音楽の形に寄りそう形を見つけなきゃだめだよ。
アーティストやバンドマンは、ライヴハウスで音楽を演奏したがる。
なぜなら「演奏する」ことは、「表現する」ことだから。
そこには「やっている感」があるのです。
言い換えればアーティストの表現したいという自己欲求が満たされるから。
そこでのパフォーマンスが、どう次に繋がるとか、動員がどれぐらいできていたとか、収益はいくらだった、とかを二の次に考えてしまう。
仰る通り。ライヴは表現の場だったし、私は常々そういうものに魅了されてきた。
そして市場価値としての音楽はどんどん暴落していることを確かに目の当たりにしながらも、
いや、そんなことない。私の信じた音楽の力はそんなものじゃないはずだぞと、
音楽の価値回復、起死回生を夢見ていたのも事実です。
私は音楽を学術的に勉強した者の端くれとして、音楽に対して、ひとつ念頭に置いておきたい考え方があります。
それは、音楽(芸術)は真実を表現することはできない、ということ。
ここでいう真実とは、普遍的ななにかのこと。
つまり100人聴いたら100人全員が同じ何かを感じるということ。
100人聴いたら100人がこの音楽を好きだと感じること。
当然、そんなことはありえません。
普遍的なものや、真実ではない。
そう、この視点では、音楽は大した力はないのです。
しかしながら音楽が何かを表現することは間違いなく、聴き手が何かを感じ取ることも間違いありません。
音楽には、意味がある。
何百年も何千年も無くなることのなかった、芸術としての潜在的な意味が、何かあるのです。
もう一度音楽を思考し、創造しようと思っています。
つい先日まで、音楽が自分の手の中にあり、それを表現するのだ、と思っていました。
しかしそれは過ちでした。
音楽は、誰かの手の中に収まるようなものではなかった。
能動的な聴取、という言葉があります。
「聴く」という行為は、とても受動的な、受け身として捉えられがちですが、
主体的に、創造的に聴く、ことが芸術としての音楽には求められます。
いつからか、私自身も音楽を受動的に聴いていたのではなかろうか。
その身で自分が音楽を表現しようなんて笑い話ではなかろうか。
この考え方がもう一度踏まえない限り、
福森さんのいう「アーティストになってはいけない」の本質的な意味を理解することはきっとできないでしょう。
「アーティスト」とはなんなのか。音楽でいうアートとは。
福森さん。
彼は「赤羽は良い街だなあ」とぼやいていた。
そこにはなんだか哀愁があった。福森さんのタバコのようだった。
彼のタバコには、いつも哀愁がただよう。
対談の模様は動画を撮りました(居酒屋の喧噪にまみれていますが)ので、
近日にラジオとしてネット配信いたします。おそらく。
いじょう!