仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

綴詞

今日は作詞家、阿久悠さんの書いた歌詞の歌やインタビューを見続けていた。

インタビューで阿久悠さんが応えた物の中で
「歌は時代が選び、時代が歌を育てる」
という言葉があった。
歌は時代が選ぶ。
しかしこれに逆説はない。
すなわち歌(歌詞)が時代を進めることはないんだろう。
当時、バブルと呼ばれていた時代を私は知らないけれど、
その中で阿久悠さんが書いた歌詞は確実に聴衆の心を捉えて、
その時代にその歌は根付き、
時代を象徴するような歌となったのだろう。(その象徴を確実に感じ取ることは不可能だけど)

その一方で阿久悠さんの書く歌詞は、どこか時代に逆らっている文章が多い。
時代の流れに本当についていってないというか。
流れに身を任せてもいないような。
どちらかというと川の中の大きな石のようなイメージ。

阿久悠さんは15条に渡る「作詞家憲法15条」というものを考案した。
以下、長いけれど全て引用いたします。

1.美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と違う道はないものであろうか。
2.日本人の情念、あるいは精神性は「怨」と「自虐」だけなのだろうか。
3.そろそろ都市型の生活の中での人間関係に目を向けてもいいのではないか。
4.それは同時に歌的世界と歌的人間像との決別を意味することにならないか。
5.個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。
6.「女」として描かれている流行歌を「女性」に書きかえられないか。
7.電信の整備、交通の発達、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、情緒はどういう関わりを持つだろうか。
8.人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。時代によって全くしなくなったものもあるのではないか。
9.歌手をかたりべの役からドラマの主人公に役変えすることも必要ではないか。
10.それは歌手のアップですべてが表現されるのではなく、歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求していいのではないか
11.「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。
12.七・五調の他にも、音的快感を感じさせる言葉数があるのではなかろうか。
13.歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリュームを四分間に盛ることも可能ではないか。
14.時代というものは、見えるようで見えない。しかし時代に正対していると、その時代特有のものが何であるか見えるのではなかろうか。
15.歌は時代とのキャッチボール。時代の飢餓感に命中することがヒットではなかろうか。


歌は時代が選ぶ。
しかし選ばれなくても、歌は時代の中には存在しているのも確かである。
今は物量として飽和しているような状態かもしれませんが。


しかし私はここ数日思う。
時代の流れはこんなにも急速だったのかと。
今、私たちがいる時代は、もしかしたら、かつてないほど早く進んでいるのではないか。
目まぐるしく変化している環境。
まさに置いてけぼりにされているような感覚がある。
それは私が年を取りすぎたこともあると思うけれど。

深夜のニュースで一人のパネリストが
「今は時代の過渡期にある。この時代を楽しまないで、いつ楽しむんだ」
といった発言をしていた。

身も蓋もない話であるなあと思ったと同時に、
遭難者がたくさん出るであろうとも思う。
海にたどり着くまでには死者もでる。


歌は時代が選ぶとしたら、
今はどんな歌や詞が時代に残るのだろう。
それは非常に興味がある。
そしてその歌ははきっと今の時代に対するアンチテーゼが含まれていると思う。


いじょう!