仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

恋をする

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ベニバラ兎団による
「恋とパズルとシャンプーと。」
無事に閉幕いたしました。
月並みな言葉ですが、お越しいただいた方、本当にありがとうございました。


当初、ピアノとアコーディオンを舞台袖で弾くはずだったのが、
ピアノがなくなり、アコーディオンのみになり、
演奏場所が舞台袖ではなく舞台上にかわり、
まるで亡霊のように役者さんにつきまとって演奏した。
監督の話では、主役の次に舞台上にいた時間が長かったらしい。


劇中の曲は全て作曲した。
ソロのアコーディオン8曲と、オルゴールの曲、計9曲。
これらを劇の進行と役者さんの表情とか台詞に合わせて演奏した。

役者さんに合わせて演奏する。
これについて、私は大きな誤解をしていた。

その誤解に気付いたのが、本番始まって3日目くらい。
主役の原さんが、シャンプーがなくなりそうになるのを見て、
「魔法が・・・!」
という中盤のシーン。
場面に音がはまりすぎて、自分の音が意識できなくなる、という感覚を体験した。

場面に音がはまるのは当然。
場面から良いと推察される音程や和声やアゴーギクを選んでいるんだから。

だけどそれにしては、はまりすぎていた。
ここまではまるのは、何かがおかしかった。
その時に感じた、何とも言えない感覚。音に乗られているような感覚。

つまり、なんてことはなく
こちらが提示した解釈に、役者さんから解釈が返されていた。

まるでセッションのようだ。
私がアコーディオンの音で提示するシーンの解釈。
役者が表情や台詞で提示するシーンを解釈。
それらの並列ではなく、積み重ねであって、
それで芝居は成りたつものであった。ロジックである。

それに気付いた私はとても愚かで恥ずかしかったが、これ以上の幸せはないと瞬間に思い、感動。
そうして次のシーンで何をするのかとんだ私は、出だしの音を間違えた。

気付いてしまえば、今まで気付かなかっただけであり、
役者さんから解釈が提示されているシーンは他にいくつもあった。
あほかと思った。
気付かさせてくれた原さんには感謝である。

以降の公演では、役者が気持ちよく演じれるように、とかそういう不純なことは考えず、
ただ、聴くことのできないBGMになるよう演奏した。
結果、難易度が跳ね上がった。
もっと上手くなることの必要性を感じた。


イザムさん、野沢トオルさん、古宮基成さんをはじめ、役者さんとスタッフさん。
経験値をたくさん頂きました。

役者さんたちはみんな輝いていた。
そして私が作った劇中の曲を、休憩中にその役者さん達が口ずさんでいるのを聴くたびに、こんな嬉しいことはないなあと思った。

友人がブログで
「感謝すべき人がたくさん居て幸せでリア充だからしっかり生きる。」
と書いていたが、私もそう思う。


がんばろう。
月並みな言葉だけれど。

いじょう!