仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

敷衍の下には

チャリティーイベント。募金活動。節電。不謹慎な言動の規制。
おそれおおくも、それらに対して私は違和感を感じている。
いいかえれば、恐怖。畏怖といってもいいかもしれない。

以下、侮蔑する言動に聞こえるかもしれないが、そういうつもりはない。
これらに参加している方々を貶すつもりはなく、ただのつぶやきなので容赦いただきたい。



どう考えても、他律的な行動にみえてしまう。
コントロールされた運動といいかえてもいいと思う。

かの大地震。
あの地震がなかったら、街角で募金している人たちは、99%募金活動をしていない。しようとすら思わなかったはず。

原因=地震、理念=善、行動=募金。

行動は、地震を起因にする時点でコントロールされている。
本当の意味での自発的な行動は、地震を起点に考えてる時点で自発性はない。
よって他律的な行動。

でも自律だろうと他律だろうと、それ自体は別にいい。
こういうチャリティーが良いとか、そういうことが言いたいのではない。


問題にしたいのは、
突然ぽんっと表面化した善。
それを、いったいどうしたら信じられるのか。
それに、いったいどうしたら一致団結できるのか。

善は善。
悪は悪。
しかし善は悪でもあるし、
悪は善でもある。

偉い人は、偉くない人がいるから「偉い」が存在する。
フタは、ビンがあってはじめて「フタ」が存在する。
善と悪も同じように、表裏一体。

募金活動という大きな善が恐怖である。
他人のために、という大義は、恐ろしいほどまでに善であるから。
その裏にある悪は、いったいどうなるのだろう。

私の心は善一色ではない。
善も悪も共存している。比率は謎。

その内面の悪に対して、
どう嘘をついたら良いのか分からず、
チャリティーイベントはすべて断ってしまった。



繰り返すけれど、募金を否定しているつもりは全くない。
募金も節電も必要なことだと思う。
たとえ真っ向から罵倒するように否定する人がいても、
チープにいえば、「やらない善よりやる偽善」であり、
なにより社会が味方保障してくれる。



では募金やらチャリティーに参加しないものは何者だろうか。
否定するものは、何者になってしまうのだろうか。

仮に、
募金もしない。チャリティーも断る。節電もしない。天災なんだから仕方ないと発言するものが私だとして。

非人道的だといわれたら、
はい、人間ではありませんと答えるしかない気がする。
社会悪だといわれたら、
そうです、悪です、と答えるほかない気がする。

参加するのもしないのも自由だといわれても、
やはり、「参加=善」が存在している以上、「不参加=個人の自由」では図式が成り立たない。





長くなってしまった。

およそ、無力。