ゲーテ先生
表出と模倣。
表出を伴わない模倣は、ありえない。
模倣とは、芸術家の精神状態とかを再現するものであり、
表出とは、芸術家の情感とか感情の表現である。
つまり模倣と表出の違いは、
作品と作者との関係の仕方にある。
そして近代、芸術とは模倣から表出のあり方にある、と変わる。
それはすなわち人間の内面の重視である。
模倣も表出も内面を表現することには違いはないが、
作品としての対象が、模倣は外的であり、表出は内的である。
つまり表出は、人間の内面と作品対象の一体化が起こっている。
そして、
近代の芸術においては、「独創的であるかどうか」が非常に重要なファクターになっている。
古代ギリシャの時代はそうじゃなかった。
詩・音楽・舞踊の一体化として存在したムーシケーの本質はミメーシスであり、
すなわち芸術とはミメーシスのことであった。
(ミメーシスとは、魂のエートス(旋律)とムーシケーとをつなぐためのものと、プラトンは言う)
それを踏まえて、
昨日とおととい、歌い手、小川恭平が北越谷の駅で路上をやるにあたり、
私はアコーディオンでサポートをした。
私が演奏したアコーディオンの音とは、すなわち、
私の表出に違いないと思いたい。
演奏する曲は、ほかでもなく小川恭平の作品である。
それをサポートするならば視点は、大きく2つ。
ひとつ、模倣の視点ならば、小川恭平の価値観をどのようにメロディーとするか。
もうひとつ、表出の視点ならば、仲条幸一は小川恭平の曲をどのようにメロディーとするか。
いじょう!