仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

ゲーテ先生

ゲーテの『ヴィルヘルム マイスタージンガー



表出と模倣。
表出を伴わない模倣は、ありえない。

模倣とは、芸術家の精神状態とかを再現するものであり、
表出とは、芸術家の情感とか感情の表現である。

つまり模倣と表出の違いは、
作品と作者との関係の仕方にある。

そして近代、芸術とは模倣から表出のあり方にある、と変わる。
それはすなわち人間の内面の重視である。

模倣も表出も内面を表現することには違いはないが、
作品としての対象が、模倣は外的であり、表出は内的である。

つまり表出は、人間の内面と作品対象の一体化が起こっている。



そして、
近代の芸術においては、「独創的であるかどうか」が非常に重要なファクターになっている。
古代ギリシャの時代はそうじゃなかった。
詩・音楽・舞踊の一体化として存在したムーシケーの本質はミメーシスであり、
すなわち芸術とはミメーシスのことであった。
(ミメーシスとは、魂のエートス(旋律)とムーシケーとをつなぐためのものと、プラトンは言う)


それを踏まえて、


昨日とおととい、歌い手、小川恭平が北越谷の駅で路上をやるにあたり、
私はアコーディオンでサポートをした。

私が演奏したアコーディオンの音とは、すなわち、
私の表出に違いないと思いたい。

演奏する曲は、ほかでもなく小川恭平の作品である。
それをサポートするならば視点は、大きく2つ。

ひとつ、模倣の視点ならば、小川恭平の価値観をどのようにメロディーとするか。
もうひとつ、表出の視点ならば、仲条幸一は小川恭平の曲をどのようにメロディーとするか。



いじょう!