音楽聴
大学に入れない。
ピアノが弾けない。
というわけで、音楽を聴く、とは何かを勉強している。
通称、音楽聴。
現代、音楽のあり方が変わった。
音楽は社会学の色が強くなり、
大衆のため、BGM、陶酔、などの娯楽として音楽が奏でられるようになった。
それはそれとして。
いわゆる「芸術」は、ベクトルは大きく2つの可能性を持っている。
芸術→私たち
私たち→芸術
である。
音楽聴を提唱したリーマンやハンスリックなどが言うところによると、
音楽を聴くことで陶酔したり満足をしたり幸せになったり同意したりする、ということは、
すなわち「芸術→私たち」というベクトルであり、
私たちは芸術を受け身として聴くということである。
しかし、それは芸術のもつベクトルの半分でしかない。
その一方で、音楽を聴き、音楽に向き合う。
そしてそこに解釈を見いだし、自分なりに再構成をする。
それが受け身ではない、攻めの音楽聴である。
すなわち作者から切り離された作品を、自分の作品として解釈をする、ということだ。
どちらが正しいというより、
どちらも行う必要がある。
そしてリーマンは、芸術を作る際の衝動を、伝達、遊戯、模倣の3段階で論じていくのだけれど、、、
面白い。
そういう考え方があったとは。
しばらくは音楽聴を勉強しよう。
それはそうと。
今日、久しぶりに「走る」という運動を行った。
この運動は人間のすることではないかのような反応を我が身体は示した。
体力やばいぜ。
走ろうぜ。
いじょう!