仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

ぼやきと洗濯物

雨が降ってきた。
洗濯物が濡れていく。



たくさんの私を感じる。
誰かと話す時、メールをする時、電話をする時、


どれも違う私なのは明らかだけど。
どれも私であることも明らかだ。
だから結局私は私でしか成りえないのだけど。
そんなことで概括する私も愚かではないか。

メタ認知なんて私には必要ないと思っていたが、やはり勝手に身についてしまっている。
いや、そもそも持たないことが無理なのか。
少なからず得てきた知識がそうさせるのか。



自己の表出。アイデンティティの確立。
他人を介する多くの行動は、客観性なくては成立しないというのが持論だ。

たとえば、
雨にぬれながら歩いていく友人がいたとして、
自分は傘を持っていたとする。
「私の友人」が「雨」に濡れている、というその事実に対して。
たいていは「いれてあげよう」とか「貸してあげよう」などと思うのだろうけれど。
その行動は、本当に私の内面から出た行動なのだろうか。

「あいつが困っている」という推測。
「そうした方が助かるだろう」という予想。
「それが普通」という常識論。
それらを私たちは無意識のうちに取捨選択、決定し、アクションを起こす。


常識、規範、知識、感情。
これらが内包された葛藤を、瞬間、私は感じる。
これさえなければ私も傘を閉じて、一緒に濡れてやったっていいと個人的には思うけれど。

きっとそれはできない。



たくさんの嘘をつく。もはや、つきたくないとすらも思わない。
嘘をつかなければ、もう私の世界は正しく回らない。

正しいこととはなんだったか。

『人にやさしくするために やさしくされる度に
ありのままでは生きてはいけないと 思い知らされ前を向く』

そういう歌詞を、私は私の曲で歌った。
ぱっと見ると発起点を他者にしているけれど、
しかしなんてことはない、自分自身のためだ。


ある文化をアウトサイダー文化と定義するのは、いつだって第三者の視点から見た時だろう。
自分で自分をアウトサイダーだというのはなんだか滑稽だし、
自分で自分を揶揄しているような感じがする。
その意味で、私は私の作品を介して、吐露しているだけに過ぎない今。

笑わせてくれますよ。ね。



今日は教員採用試験でしたね。
該当した方、おつかれさまでした。
先生になってほしい方と、なってほしくない人がいますけれど。
あなたたちは前途洋洋だ。


さて

濡れていく洗濯物を
そろそろ取りこむか。


さよなら。