仲条幸一のブログ

仲条が感じたり考えたことを書き連ねるブログ

27歳になったから

「超」という言葉使うの止めたい

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録音した音源とかを聴くと、たまに、

「超かっこいいなあ、これ」

とか、

「めちゃくちゃすごい」

というような言葉を自分が使っていることにゲンナリすることがある。

 

「超」という言葉は非常に便利で、どうやら無意識に多用しているようである。

まあ、語彙力がない証拠であるが。

こういう言葉を日常的につかっていればそりゃあ言葉も覚えないでしょうけれど。

もういい大人なのだから、自分の言葉使いを改めようと思っています。

日本語はもっと美しいのだ、きっと。

 

 

本日、27歳になりました。

相変わらず自分の音楽を続けています。

 

最近、こういう音楽ってほんと楽しいなあと思う瞬間が増えました。

一方で、こういう音楽ってほんと時間の無駄で、つまらないなあという瞬間も増えました。

 

自己表現としての音楽。辞めるタイミングはいままでたくさんありました。

自分は本当に才能がないんだな、ということを思い知らされる瞬間は数えきれず、

多くの人を憎んだし、多くの人に支えられました。

そしてその度に誰かに対する憎しみや悔しさや歯痒さを抱き、

次に向かうエネルギーに無理矢理変換し、

何か自分にしかできない音楽があるのだと、未だに思い込んで、ピアノに向かいあっている毎日を過ごしています。

そう、

私は負の感情をバネにして、進んできたと実感しています。

人と違うことを馬鹿にされてきた幼少期。

人と違う、なじむことのできない人間だと罵られた頃。

しかし大人になっていくにしたがって、お前は普通の人間だと言われるようになる、この世の不思議。

ふざけんな、と思います。だったらはじめからそう扱われるべきだ。

 

人は生まれる場所を撰べません。

人種や国籍はもちろんのこと、裕福な家、兄弟、地域の環境。

それらは用意されているものです。

そしてそれらから発生する、差。

身近な例では

裕福な家であることと、学力が高いことは比例関係にあったり、

治安の悪い地域で生まれれば、性格形成に大きな影響がでるなんて当たり前の話。

私が子どもの頃からピアノを習いに行かさせてもらえてたこともそう。

もちろんこんなことすら考える余裕のない国だってある。人が毎日餓死するような国では、音楽なんて必要ない。

 

その偶然の先の今。

私の周りには音楽があり、そして今なお、音楽を表現している。

贅沢なのかもしれないし、愚かなのかもしれない。

それでも、私はきっと今の人生を後悔することはないと思います。

 

 

負のエネルギーはようやく俯瞰して観ることができるようになりました。

それは年月と出会いのおかげです。

こればっかりは、偶然に感謝しなければ。

 

 

超興奮するような音楽を、これからも探していくのです。