今年もまた音楽を辞めた人がいた
何気なく手帳を振り返ると、今年はリハーサルとライヴだらけだった。
特に今年はライヴをしていたと思う。去年の倍くらい、させてもらったのではないだろうか。
その一方で、
就職、家庭の事情、一身上の理由。
それらを理由に、音楽を表現することを辞めると言った友人もいた。
おいおいそんなに簡単に線引きできるのか?なんて
偉そうなことは言えません。結局私も自分が可愛いのです。
力になれず、申し訳もない。
とある場所で、何人かの子どもたちとこういう話をした。
「youtubeをきいて罪悪感があるか」
はい、ある訳ないですね。もちろん。私もないです。
130年前、音楽は録音が出来ませんでした。
エジソン先生が電気を発明するまでは、蓄音が出来なかった。
だからこそプロのミュージシャンは必要だったし、無料で音楽を聴くなんてこともありえなかった。
録音が可能になることで多くの2流3流のプロは仕事をなくした。
一方で、音楽は広く家庭に親しまれるようになった。
500年前、印刷の技術が発展しました。
それまで口伝や、師を倣うしか会得出来なかった音楽は、
「楽譜の印刷」という技術によって、多くの人に親しまれるようになった。
今は丁度、時代の転換期。
音楽は更にシームレスが推進されて、そのサービスでは「無料化」が進みます。
音楽はタダで聴くのが当たり前。
気になる音楽があったらyoutube検索が基本。
これに罪悪感なんて、ありえません。
むしろ、どうにかしてユーザーに「購入」してもらおう、という工夫が透けて見えてしまうのに正直うんざりすることも多いです。
ああ、音楽にはどうやらそういうことが必要な時代なのだと。
長く音楽を続けていくためには、音楽以外の何かしらの工夫が必要なのだと。
でも私は思う。
こんな時代だからこそ、自分の音楽活動は好きなことをやるべきなんじゃないかと。
だって、だからこそ表現としての音楽を選んでいるのだから。
私は誰かのサポートをするときは、その人が売れるためにはどうしたらいいかを考える。
どうしたらこの人の音楽がより際立って、その人間の魅力も強調され、結果としてCDが一枚でも多く売れればいいと思う。
じゃあ自分は売れなくてもいいの?多くの人に知ってもらいたくないの?と聞かれたら、そういう訳では在りません。
多くの人に聞いてもらいたいし、お金だって欲しいに決まっています。
しかし、それだけじゃないのです。
今の時代の音楽は、音楽以外の工夫が大事なんていう事実を、完全に受け入れたくないのです。
音楽を表現することを辞めると宣言した人たち。
それは、この時代に合わなかったのではない。
ただ単に、音楽が信じられなくなっただけだと思う。